ありがとう ― 2016年11月05日
店員「200円のお釣りになります。ありがとうございます」
客「・・・・」
たいていの日本人だったら多少の会釈はしつつも何も言わずにその場を立ち去ってしまうだろう。
かく云うわたしもそうだ。
「ありがとう」と返答しようにも、何か得体の知れないものがわたしの口を塞ぐのである。
下で述べることとは相反してしまうが、 そもそも「なんで『ありがとう』と云う必要があるの?」というのが根底にある。
その昔、コンビニやスーパーのレジを担当していたとき、常連のお客さんに幾度となく「ありがとう」と声を掛けられたものである。
そのときの「ありがとう」はお客さんから何気なく発せられたものであり心地よいものであった。と同時にがんばろうという気持ちにもよく駆り立てられたりした。
だからこそこの「ありがとう」という言葉の有り難みは一般の人よりわかっているつもりではあったが、いざ自分が客の立場になると必ず口を噤んでしまう。
それは、なぜか?
おそらく「ありがとう」という気持ちにさせてくれる接客をされていないからではないだろうか。いやしくもお客様が神様という考えからではなく、まず普段の接客に心がこもっていなかったら「ありがとう」と云う気も失せてしまって当然だろう。
例えば、洋服屋さんで高い買い物をしたり、美容室でお気に入りの髪型にアレンジしてもらって気分が高揚したら、自然と相手に「ありがとう」というフレーズが出てくるはず。
コンビニやスーパーで大層なおもてなしを受ける義理は勿論ないが、 これも対面での商売、 正社員であろうとアルバイト・パートであろうと気持ちの良いコミュニケーションが大切。
ちょっとした会話を通じて温かい気持ちになれたとしたら、その日一日は中々の儲けものをしたんじゃないかとわたしは思うのである。
没頭 ― 2016年11月06日
電車の中で窓ガラス越しに髪の毛をしきりにいじっている若者をたまに目にする。
この光景をおっさん視点でチャラいと批判することが本題の主旨ではない。
むしろ羨ましいくらいだ。
というのも、大勢の見ず知らずの人がいる中で自分の顔を凝視するなんてわたしには到底できないからである。
だから外出先で身嗜みをふと整えたくなったりしたらどうするのかというと、鏡の付いたエレベーターに一人になったときや、トイレの洗面台に誰もいなくなったときを見計らって確認することにしている。
たまにエスカレーターに沿った壁面に鏡が設けられていることもあるが、そうした場面でも前方後方に人がいると恥ずかしくてまともに鏡に顔を向けることができない。せいぜいチラッと覗くぐらいである。
こんなこと云うと、お前どんだけ自意識過剰なんだと突っ込まれそうだが、はい、仰る通りです。
自分のことなんて他人は殆ど気にしていないし、きっとそうに違いないんだけど、いつの頃からかよそ様の目を気にするようになってしまった。
ところで、わたしの中では、髪の毛いじりに没頭している先の若者は周りのことなんておよそ視界に入っていないと思う。 だからそこに恥ずかしさなんて微塵もない。
しかし他者を意識せずある行為に熱中ばかりしていると、周囲にはみっともない行動として映ることが時にある。最近ではスマホやお化粧いじりが最たるもので、直接迷惑を被っていなくても、側にいてあまりいい気はしない。
すると、もしかしてわたしは他者への配慮を非常に重んじてしまったがゆえに、窓越しに映る自分の姿すら見られなくなってしまったのだろうか?
馬鹿げているがそれも一興だ。
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